- 石牟礼道子 著
- B6変上製 256頁
ISBN-13: 9784865781151
刊行日: 2017/2
生前交流のあった方々の御霊に捧げる悼詞
荒畑寒村・白川静・鶴見和子・橋川文三・上野英信・谷川雁・多田富雄・木村栄文・細川一・砂田明・
土本典昭・本田啓吉・田上義春・川本輝夫・宇井純・原田正純・杉本栄子 各氏 ほか
目次
無常の使い――序にかえて
荒畑寒村(1887-1981)
死んだ先生に電話をかける
細川一(1901-1970)
わがじゃがたら文より
仲宗根政善(1907-1995)
前世の出逢い
白川静(1910-2006)
先生は生きておられる
鶴見和子(1918-2006)
別の世からの使徒――ありし日の水俣で
社会学理論を裏づける日本的情趣
生きるよすがをよみがえらせた方
橋川文三(1922-1983)
玲瓏たる水脈
上野英信(1923-1987)
み民われ生けるしるしあり
ひかりの露に
追悼文
お茶碗洗われる英信さん
谷川雁(1923-1995)
在りし日のこと
護 符
反近代への花火
本田啓吉(1924-2006)
奥さまのご苦労は
井上光晴(1926-1992)
光晴さん無念
砂田明(1928-1993)
鈴鉦のひびき
土本典昭(1928-2008)
光芒を放った日常
やさしい阿修羅
石田晃三(1930-1985)
天の微光の中に
田上義春(1930-2002)
田上義春さんを悼む
川本輝夫(1931-1999)
川本輝夫さんを悼む
宇井純(1932-2006)
小さな声の宇井純さん
多田富雄(1934-2010)
病の中、能で示した免疫論
孤 城
八田昭男(1934-1984)
含羞に殉ず
原田正純(1934-2012)
水俣病患者支え続けた笑顔
木村栄文(1935-2011)
近代を問う同志として
野呂邦暢(1937-1980)
感性の詩人
杉本栄子(1938-2008)
「私は魚――生きろうごたる」
ありし日を偲び 語らう
三回忌ごあいさつにかえて
栄子さんの命日に
久本三多(1946-1994)
永訣の挙手
初出一覧
編集後記
荒畑寒村(1887-1981)
死んだ先生に電話をかける
細川一(1901-1970)
わがじゃがたら文より
仲宗根政善(1907-1995)
前世の出逢い
白川静(1910-2006)
先生は生きておられる
鶴見和子(1918-2006)
別の世からの使徒――ありし日の水俣で
社会学理論を裏づける日本的情趣
生きるよすがをよみがえらせた方
橋川文三(1922-1983)
玲瓏たる水脈
上野英信(1923-1987)
み民われ生けるしるしあり
ひかりの露に
追悼文
お茶碗洗われる英信さん
谷川雁(1923-1995)
在りし日のこと
護 符
反近代への花火
本田啓吉(1924-2006)
奥さまのご苦労は
井上光晴(1926-1992)
光晴さん無念
砂田明(1928-1993)
鈴鉦のひびき
土本典昭(1928-2008)
光芒を放った日常
やさしい阿修羅
石田晃三(1930-1985)
天の微光の中に
田上義春(1930-2002)
田上義春さんを悼む
川本輝夫(1931-1999)
川本輝夫さんを悼む
宇井純(1932-2006)
小さな声の宇井純さん
多田富雄(1934-2010)
病の中、能で示した免疫論
孤 城
八田昭男(1934-1984)
含羞に殉ず
原田正純(1934-2012)
水俣病患者支え続けた笑顔
木村栄文(1935-2011)
近代を問う同志として
野呂邦暢(1937-1980)
感性の詩人
杉本栄子(1938-2008)
「私は魚――生きろうごたる」
ありし日を偲び 語らう
三回忌ごあいさつにかえて
栄子さんの命日に
久本三多(1946-1994)
永訣の挙手
初出一覧
編集後記
関連情報
■五〇年くらい前までわたしの村では、人が死ぬと『無常の使い』というものに立ってもらった。必ず二人組で、衣服を改め、死者の縁者の家へ歩いて行ったものである。
■「今日は水俣から無常のお使いにあがりました。お宅のご親戚の誰それさんが、今朝方、お果てになりました。お葬式は何時ごろでございます」
■口上の言葉はおろそかにしてはならず、死んだとはいわない。「お果てになりました」とか「仏さまになられました」という。
■使いを受けた家では、これも丁重に、お帰りのお足元は大丈夫ですか、とねぎらった。
■無常の使者は一組でなくて、何組も出発させねばならない。その人たちが帰ってきて、行った先の人たちが何時ごろ来るかを確かめて、葬儀の準備を整えていた。
(「無常の使い――序にかえて」より)
■「今日は水俣から無常のお使いにあがりました。お宅のご親戚の誰それさんが、今朝方、お果てになりました。お葬式は何時ごろでございます」
■口上の言葉はおろそかにしてはならず、死んだとはいわない。「お果てになりました」とか「仏さまになられました」という。
■使いを受けた家では、これも丁重に、お帰りのお足元は大丈夫ですか、とねぎらった。
■無常の使者は一組でなくて、何組も出発させねばならない。その人たちが帰ってきて、行った先の人たちが何時ごろ来るかを確かめて、葬儀の準備を整えていた。
(「無常の使い――序にかえて」より)