- 岡田英弘 編
- 菊大並製 335ページ
ISBN-13: 9784894346826
刊行日: 2009/5
“世界史”の中で清朝を問い直す!!
支配層であった満洲人の満洲語、そしてモンゴル語、漢語の三言語を公用語とした「大清」。独自の「八旗」制度などの統治システムで広大な国土を領した大清帝国(1636~1912)の全体像を、チベット、ロシア、ヨーロッパはじめユーラシア全土との関わりの中で明らかにする、画期的試み。
目次
Ⅰ 清朝とは何か
(楠木賢道=編訳)
Ⅱ 清朝の支配体制
Ⅲ 支配体制の外側から見た清朝
附
清朝史関連年表 (前221~2008年)
図表一覧
編集後記
関連情報
現在の中華人民共和国の領土はすべて、一九一二年に崩壊した清朝の領土を継承したものである。ところが、一般に流布しているような「清朝は、秦・漢以来の中国王朝の伝統を引き継ぐ最後の中華王朝である」という視点は正確ではない。それはなぜかというと、清朝の支配階級であった満洲人の母語は漢字漢文ではなく、アルタイ系言語である満洲語であったこと、広大な領域を有した清朝の領土の四分の三が、同様に漢字漢文を使用する土地ではなかったからである。
一六三六年、万里の長城の北側にある瀋陽に、女直人あらため満洲人と、ゴビ砂漠の南のモンゴル人と、遼東の漢人の三種類の人々が集まって、女直人ヌルハチの息子ホンタイジを皇帝に推戴した。これが清朝の建国である。正式な国号は「大清」であり、清朝は通称である。「大清帝国」も後世の呼び方である。さて清朝では初め満・蒙・漢三体、すなわち満洲語・モンゴル語・漢語の三言語が公用語として定められた。このあと領土が拡大するに従って、チベット語とトルコ語が加わり、清朝における使用言語は満・蒙・漢・蔵・回の五体になった。清朝では満洲人の故郷と漢地以外の土地は「藩部」と呼ばれ、言語も宗教も法律も異なっていた。一九一二年に清朝が崩壊するまで、帝国全土に通用する言語は満洲語のみで、清朝のかなりの公用文書は満洲語か満漢合璧(並記)で書かれたのである。現在、北京の中国第一歴史檔案館に所蔵されている何百万件という清代檔案(公文書)の半数が満文、半数が漢文なのである。
ところが一九一二年に中華民国が成立すると、満洲語はほとんど死語となってしまった。現代中国では、満族と呼ばれる満洲人の後裔は一千万人を越えるが、満洲語を話す人間は新疆北部に居住するシベ族を中心として数万人のみである。かえって戦後の日本で満洲語研究が盛んになり、私が加わった『満文老檔』の研究は、一九五七年の日本学士院賞を受賞するに至った。このあと日本のみならず世界の学界において、清朝史研究に満洲語が必要であるという認識が定着したが、まだ研究者の数も少なく、一般読者にこのことが広く知れ渡っているとはいえない。
そこで本企画では、漢文に加えて、満洲語やモンゴル語やチベット語やロシア語などの史料に基づく、さまざまな研究者による新しい切り口で、清朝それ自体を捉え直したいと考えた。これまでの日本の東洋史の蓄積も大いに取り入れ、日本やヨーロッパとの関係もふくめて、清朝という大帝国の全体像を明らかにしたい。
岡田英弘 (東京外語大学名誉教授)