- 新保祐司
- 四六上製 392ページ
ISBN-13: 9784865781533
刊行日: 2017/12
近代日本最大の逆説的存在から照射する明治百五十年の異風景
キリスト教という「薬」抜きに西洋文明という「毒」を移植した日本近代が、根柢的に抱える欠落とは何か。明治百五十年の今、終焉を迎えつつある「日本近代」を、内村鑑三というトップライトから照らし出すと共に、内村という磁場に感応して近代の本質を看取した明治から昭和の文人・思想家たちの姿を描く渾身作。
目次
序
1 明治百五十年の日本と内村鑑三
今、何故内村鑑三か――キリスト教は西洋の宗教ではない
今、何故「明治初年」か――内村鑑三と「志士的ピューリタニズム」
内村鑑三――「正しい位置に心を置いた人」
2 近代日本思想史における内村鑑三
近代日本における「基督教」
昭和の文芸評論と内村鑑三
3 富岡鉄斎と内村鑑三
一 京都、便利堂
二 大田垣蓮月
三 内藤湖南
四 美と義
4 内村鑑三の磁場
鑑三・ダンテ・白鳥――内村鑑三の「大文学論」と正宗白鳥
芥川龍之介と室賀文武――天才と使徒について
宮沢賢治と内村鑑三
大佛次郎と内村鑑三
小林秀雄の内村鑑三観
山田風太郎と内村鑑三
あとがき/内村鑑三年譜(1861-1930)/主要人名索引
関連情報
「内村さんのような人が明治に産出したことは明治の光だと思う。」―― 徳富蘇峰
近代というものを、人間の時代であるとすれば、近代の終焉とは、ヒューマニズムの終焉であり、文化主義の失墜である。そして、人間の時代としての日本の近代に対する最も根源的な批判者であり、近代の終焉がもたらすこのような事態に対峙し得る精神の人は誰かといえば、内村鑑三なのである。
近代の達成としての明治百年のときとは違って、近代の終焉を迎えた明治百五十年のときには、明治という時代の文明開化の面に対する根源的な批判者である内村鑑三こそが、「代表的」「明治の精神」として立ち現われて来るのである。
(本書「序」より)
【著者紹介】
●新保祐司(しんぽ・ゆうじ)
1953年生。東京大学文学部仏文科卒業。文芸批評家。現在、都留文科大学教授。
著書に、『内村鑑三』(1990年)『文藝評論』(1991年)『批評の測鉛』(1992年)『日本思想史骨』(1994年)『正統の垂直線――透谷・鑑三・近代』(1997年)『批評の時』(2001年)『国のさゝやき』(2002年)『信時潔』(2005年)『鈴二つ』(2005年)[以上、構想社]、『島木健作――義に飢ゑ渇く者』(リブロポート、1990年)、『フリードリヒ 崇高のアリア』(角川学芸出版、2008年)『異形の明治』(2014年)『「海道東征」への道』(2016年)[以上、藤原書店]『シベリウスと宣長』(2014年)『ハリネズミの耳――音楽随想』(2015年)[以上、港の人]『明治頌歌――言葉による交響曲』(展転社、2017年)がある。また編著書に、『北村透谷――〈批評〉の誕生』(至文堂、2006年)、『「海ゆかば」の昭和』(イプシロン出版企画、2006年)、『別冊環? 内村鑑三 1861-1930』(藤原書店、2011年)がある。
2007年、第8回正論新風賞、2017年、第33回正論大賞を受賞。