新保祐司
四六上製 288ページ
ISBN-13: 9784865782332
刊行日: 2019/07
真に「書くべき程の事」を書き留めた詩的批評文集
孤高の基督者・内村鑑三、宗教哲学者・波多野精一ら、近代日本において信仰の本質を看取した存在を通して、〈絶対なるもの〉に貫かれる経験を批評の軸としてきた新保祐司。すべてを〈人間〉の水準へと「水平」化し尽くす近代という運動の終焉を目の当たりにして、「上」からの光に照らして見出された文学・思想・音楽の手応えを簡明かつ鮮烈に素描した、珠玉の批評を集成。
目次
序 上よりの垂直線
第Ⅰ部 見るべき程の事は見つ――平知盛
序 章
なにかある。本当になにかがそこにある。
シャルトル大聖堂の上空から切り取られた青空
エズのニーチェの道で拾った小石
マーラーの第三番の“long Adagio”
ヨークの宿の「笑う騎士」
雪のコッツウォルズ
ル・コルビュジエの「休暇小屋」
異郷にて五十の年も暮れにけり
リラダンの墓に献花する齋藤磯雄
キルケゴールの通過
「ラズモフスキイをくれ」「何番ですか」「三つともくれ」
信時潔作曲「紀元二千六百年頌歌」
信時潔作曲「やすくにの」と「武人の真情」
日本解体の時流に抗する「遺臣」
三好達治の「おんたまを故山に迎ふ」
日本思想史に鳴った「切り裂くような能管の音」
デフォー『ロビンソン・クルーソー』
第Ⅱ部 北の国のスケッチ
序 章
空知川の川音
にしん漬
いではみちの奥見にまからん
江差追分
江差沖で沈んだ開陽丸
白髪の遺臣
第Ⅲ部 楽興の詩情
音楽のために狂える者――クナッパーツブッシュと内村鑑三
エクセントリックということ――クナッパーツブッシュのブルックナー
カリスマ性にみる名演奏家像――音楽における宗教的なるもの
ブルックナーの使徒性
往年の名演奏と現代の名演奏
フルトヴェングラー没後50年
グレン・グールド
骨立する音楽
グレン・グールドとブラームス
ルドルフ・ゼルキン
音が立つということ
アナトール・ウゴルスキ
21世紀に受け継ぎたい20世紀の名演
トポスとしてのウィーン――何故ウィーン・フィルなのか
宇宿允人――アウトサイダーという正統
パブロ・カザルスと本居宣長――“発見”と“創造”
関連情報
伝記文学の傑作を書いたストレイチーが、その『てのひらの肖像画』のエピグラフに、ホラティウスの「思想が走るためには簡明さが必要であり、冗漫な言葉で疲れた耳をうんざりさせてはならない。」という言葉を掲げている。「てのひら」に載るような簡潔な伝記こそ、扱う人物の本質が顕れた肖像画であるということだ。いいかえれば、スケッチによってその人物がその人物である所以が描き出されるということである。『てのひらの肖像画』の中では、『ローマ帝国衰亡史』の著者、ギボンも見事なスケッチで描き出されているが、そのスケッチの中に、「バターと卵と塩と香草を寄せ集めてもオムレツにならない」という名言を書いている。
今日では、時間さえかければ誰でも「バターと卵と塩と香草」そしてその他諸々について、知識や情報を「寄せ集め」ることが可能になった。歴史の本は夥しく書かれ、伝記は大作になり詳細を極めるようになった。しかし、見事な「オムレツ」は稀である。本当に必要なのは、ストレイチーのいうように「ほんの数頁のあざやかな肖像画」なのだ。スケッチの「簡明さ」こそ、「思想が走るために」
は「必要」だからである。(本書より)
【著者紹介】
●新保祐司(しんぽ・ゆうじ)
1953年生。東京大学文学部仏文科卒業。文芸批評家。
著書に、『内村鑑三』(1990年。文春学藝ライブラリー、2017年)『文藝評論』(1991年)『批評の測鉛』(1992年)『日本思想史骨』(1994年)『正統の垂直線――透谷・鑑三・近代』(1997年)『批評の時』(2001年)『国のさゝやき』(2002年)『信時潔』(2005年)『鈴二つ』(2005年)[以上、構想社]、『島木健作――義に飢ゑ渇く者』(リブロポート、1990年)、『フリードリヒ 崇高のアリア』(角川学芸出版、2008年)、『シベリウスと宣長』(2014年)『ハリネズミの耳――音楽随想』(2015年)[以上、港の人]、『異形の明治』(2014年)『「海道東征」への道』(2016年)『明治の光・内村鑑三』(2017年)『「海道東征」とは何か』『義のアウトサイダー』(2018年)[以上、藤原書店]、『明治頌歌――言葉による交響曲』(展転社、2017年)がある。また編著書に、『北村透谷――〈批評〉の誕生』(至文堂、2006年)、『「海ゆかば」の昭和』(イプシロン出版企画、2006年)、『別冊環?内村鑑三 1861-1930』(藤原書店、2011年)がある。
2007年、第8回正論新風賞、2017年、第33回正論大賞を受賞。