総 序
第Ⅰ部 「悲の器」としての人間――『悲の器』と『捨子物語』との往還が告げるもの
第一章 『悲の器』が示す高橋の人間学
第二章 高橋文学総体の源泉としての『捨子物語』
第三章 第二十五章と第三十一章(静枝の手記)の問題
第四章 『悲の器』におけるキリスト教問題
結 章 『悲の器』最終章をどう読むか?
補論集
1 高橋文学における宗教をめぐる問題布置――『邪宗門』と『捨子物語』とのあいだ
2 《想像的人間》の小説方法論
3 高橋における「知識人・インテリゲンチャ」表象の特質――「釜ヶ崎」的賤民世界との往還性
第Ⅱ部 救済と革命――『憂鬱なる党派』『我が心は石にあらず』『邪宗門』『堕落』『散華』『日本の悪霊』そして『わが解体』以降
はじめに
第一章 「憂鬱なる党派」――二度目の敗北を抱えて
付論 「自己否定」論のその後の展開について
第二章 一度目の敗北――『堕落』と『散華』
第三章 『邪宗門』の問題圏
第四章 『我が心は石にあらず』における「科学的無政府主義」というヴィジョン――先駆的参照点
第五章 なぜ『日本の悪霊』なのか?
第六章 解体と創造――再び「自己否定」の論理について
補論 批判的参照軸集
1 小嵐九八郎
2 植垣康博『兵士たちの連合赤軍』『連合赤軍27年目の証言』
3 永田洋子の四著作(『十六の墓標』『続十六の墓標』『私 生きてます』『獄中からの手紙』)
4 川上徹・大窪一志『素描・1960年代』
5 絓秀実『革命的な、あまりに革命的な』
第Ⅲ部 女たちの星座
はじめに――起点としての『捨子物語』そして『邪宗門』
第一章 『捨子物語』における女たち
第二章 『邪宗門』における「女性的宗教」の担う問題性
第三章 概括の試み
あとがき/注
関連情報
「戦後」の進行が孕む精神的危機を《戦争の廃墟性》の《忘却》に見いだす高橋文学の視点は、そのまま21世紀の進行の孕むそれへの視点に返り咲く必要があるのだ。
眼下における21世紀の進行とは、こうではなかろうか?
人類は、未だあの20世紀ほどの巨大な「廃墟」は生みださずに済んではいるにせよ、あの経験から何一つ学び得ない愚かしさはますます歴然たるものとなり、あの廃墟を生んだ不均衡、一方における科学技術の驚嘆的な進歩、他方における退歩すら含む人間性の未発達との驚くべき不均衡、それはそのままどころか、いっそう拡大しつつある、と。
高橋文学を忘却することは20世紀の廃墟性を忘却することではないだろうか?なぜなら、彼の文学ほど、生真面目なほどの一途さで「戦後」のいうならば《忘却への意志》にたとえ独りになったとしても抗おうとした文学であるからだ。
(本文より)
著者紹介
●清眞人(きよし・まひと)
1949年生まれ、早稲田大学政経学部卒業、同大学院文学研究科哲学専攻・博士課程満期修了。元、近畿大学文芸学部教授。
本書に深く関連する著書としては、『〈受難した子供〉の眼差しとサルトル』御茶の水書房、1996年。『実存と暴力』御茶の水書房、2004年。『《想像的人間》としてのニーチェ――実存分析的読解』晃洋書房、2005年。『遺産としての三木清』(共著)同時代社、2008年。『三島由紀夫におけるニーチェ――サルトル実存的精神分析を視点として』思潮社、2010年。『村上春樹の哲学ワールド――ニーチェ的長編四部作を読む』はるか書房、2011年。『サルトルの誕生――ニーチェの継承者にして対決者』藤原書店、2012年。『大地と十字架――探偵Lのニーチェ調書』思潮社、2013年。『聖書論Ⅰ 妬みの神と憐れみの神』『聖書論Ⅱ 聖書
批判史考』藤原書店、2015年。『ドストエフスキーとキリスト教――イエス主義・大地信仰・社会主義』藤原書店、2016年。『フロムと神秘主義』藤原書店、2018年。個人叢書「架橋的思索 二つの救済思想のあいだ」として、第Ⅰ巻『ヴェーバーにおける合理と非合理』、第Ⅱ巻『大拙における二律背反と煩悶』、第Ⅲ巻『二人の葛藤者――ヴェーバーとトラー』、第Ⅳ巻『ニーチェにおけるキリスト教否定と仏教肯定』(以上、Amazon Kindle電子書籍セルフ出版)。
*ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです