- 後藤新平 案 平木白星 稿
- 後藤新平研究会 編
解説=加藤陽子 特別寄稿=出久根達郎
- B6変上製 200頁 カラー口絵4頁
ISBN-13: 9784865782813
刊行日: 2020/8
第一次大戦前夜の世界を「鎧を着けた平和」と喝破した、後藤新平の“ミュージカル”!
初代満鉄総裁、逓信大臣等を務めた後藤新平(1857-1929)は、逓相時代の部下で、『明星』同人の詩人、平木白星に語り下した本作で、第一次大戦前夜の世界情勢は“鎧を着けた平和”と喝破する驚くべき台詞を吐かせる。
欧米列強の角逐が高まる同時代世界を見据えた後藤新平が、国内外に向けて真に訴えたかったこととは何か?
目次
〈特別寄稿〉香水郵便の考案者――後藤新平が共感した詩魂 出久根達郎
〈解説〉『劇曲 平和』を読む――日本と日本人をいかに世界に表象するかという問い 加藤陽子
一 『劇曲 平和』発刊の頃の後藤新平
二 後藤新平と平木白星の接点
三 『平和』を読む――黄禍論者はいかに日本を語るのか
四 後藤新平が劇曲に込めたもの、その対外観
劇曲 平 和 後藤新平 案/平木白星 稿
〈附〉忘れられた詩人、平木白星について(後藤新平研究会)
関連情報
■後藤の伝記を監修した女婿の鶴見祐輔は『平和』を、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世による黄禍論へ対抗するため、日本と英国とが提携して危機を克服すべしと説いた戯曲、とまとめる。『平和』の原本では、ヘルマン・クナックフースの歴史画「黄禍論」を口絵に掲げ、「この劇曲を欧羅巴なる某主権者に奉献す」と書き、ドイツ皇帝を暗示しつつ、ある意味で啖呵を切るそぶりも見せているので、鶴見の評価はおおむね妥当なものだろう。
■ただ、刊行された版である本書『平和』を実際に読んでみるとわかるように、黄禍論への対策といった捉え方を超える面白さがこの脚本にはある。日露戦争後の後藤の世界戦略として知られる東西文明融和論、大アジア主義、新旧大陸対峙論等の真髄が、より豊かに展開されているだけでなく、波乱に富んだ内容も面白いのだ。
(加藤陽子「解説」より)
著者紹介
●後藤新平(ごとう・しんぺい)
1857年、水沢(現岩手県奥州市)の武家に生まれ、藩校をへて福島の須賀川医学校卒。1880年(明治13)、弱冠23歳で愛知病院長兼愛知医学校長に。板垣退助の岐阜遭難事件に駆けつけ名を馳せる。83年内務省衛生局に。90年春ドイツ留学。帰国後衛生局長。相馬事件に連座し衛生局を辞す。日清戦争帰還兵の検疫に手腕を発揮し、衛生局長に復す。98年、児玉源太郎総督の下、台湾民政局長(後に民政長官)に。台湾近代化に努める。1906年9月、初代満鉄総裁に就任、満鉄調査部を作り満洲経営の基礎を築く。08年夏より第二次・第三次桂太郎内閣の逓相。その後鉄道院総裁・拓殖局副総裁を兼ねた。16年秋、寺内内閣の内相、18年春外相に。20年暮東京市長となり、腐敗した市政の刷新、市民による自治の推進、東京の近代化を図る「八億円計画」を提唱。22年秋アメリカの歴史家ビーアドを招く。23年春、ソ連極東代表のヨッフェを私的に招き、日ソ国交回復に尽力する。23年の関東大震災直後、第二次山本権兵衛内閣の内相兼帝都復興院総裁となり、再びビーアドを緊急招聘、大規模な復興計画を立案。政界引退後は、東京放送局(現NHK)初代総裁、少年団(ボーイスカウト)総長を歴任、「政治の倫理化」を訴え、全国を遊説した。1929年遊説途上、京都で死去。
●平木白星(ひらき・はくせい/1876-1915)
1876年、千葉県市原郡姉崎村(現市原市)に士族の長男として生まれる。本名は照雄。東京英語学校(日本中学校)を経て第一高等中学校に進むが、家庭の事情で中途退学することになり、1895年には東京郵便電信局の郵便課経理掛に書記補として勤務。この頃から詩を書き始め、内村鑑三の『東京独立雑誌』や与謝野鉄幹の『明星』に作品を発表する。1906年、東京郵便電信局から人事異動で逓信省大臣官房監察課詰となる。1908年に後藤新平が逓信大臣となったことで、両者の
交流が始まったと考えられる。本書『劇曲 平和』以外の主な著書に『日本国歌』(内外出版協会、1903年)、如山堂から『新体長詩 心中おさよ新七』(1904年)、『耶蘇の恋』(1905年)、『劇詩 釈迦』(1906年)等がある。1913年、駒込郵便局長に栄転するも、1915年に急性肺炎で死去。
*ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです