- 四國光 著
- 四六上製 448頁・カラー口絵8頁
ISBN-13: 9784865783872
刊行日: 2023/5
描いて、書いて、描いた。――
「戦争」の惨禍を伝えるために膨大な「絵」と「詩」を描き続けた詩画人の素顔
広島に生まれ、満洲へ従軍、苛烈なシベリア抑留を経て帰国するも、最愛の弟の被爆死に直面、以後、戦争の惨禍を伝えるため、「辻詩」、ポスター、絵本『おこりじぞう』、「市民の手で原爆の絵を」の運動などに、その絵筆と言葉の力を惜しみなく注ぎ続けた画家であり詩人、四國五郎(1924-2014)。家族の視線から、その軌跡をたどり、素顔に迫る画期作。
目次
はじめに――戦争への怒り
第1章 神童と呼ばれた少年
第2章 「戦争体験」――軍隊 ソ連軍との死闘
第3章 「戦争体験」――シベリア抑留
第4章 「戦争体験」――原爆 弟の被爆死
第5章 戦後広島での表現活動――「反戦平和」を描く決意
第6章 「表現」することの意味
第7章 ヒロシマを描く
第8章 「市民の手で原爆の絵を残そう」
第9章 「戦争の記憶」をつなぐ
第10章 素顔の父
第11章 晩年、そして死
終章 終わらぬ旅
あとがき
〈附〉「弟の日記」 四國五郎
四國五郎の主な仕事(油彩・水彩作品以外)と関連作品
四國五郎略年譜(1924-2014)
主要人名索引
関連情報
私にとって見るということは、頭の中に描くことだ。
頭の中に描き込んだことも、やがては消える。
だから、同時に手で紙に描き残す。 ――四國五郎
〈戦後の人生を通じて、父は何かに憑かれたように絵と詩を描きまくった。「平和のために」と依頼された仕事なら、多くの作業をほぼ無償で引き受けていたのだと思う。挿絵、装丁、ポスター、カレンダー……。あまりに沢山の依頼を受けすぎて、逆に自分の絵を描く時間が無くなったことも多々あった。
父は自分の作品のあり方を、芸術よりもはるかに大事なことを実現するための、他に選択肢がない唯一無二の「生き方」と捉えていた。だから生涯、苦悩はあったかもしれないが、「表現者」としての信念は、確固として揺るぎないものだった。
「誰にでもわかりやすく、戦争の醜さや平和の尊さを描く」という父の表現方法は、最も大事なことを、理屈でなく、肌感覚として、絵を見る全ての人に確実に伝えようとして、必然的にたどり着いた父なりの決して「譲れない表現のあり方」だったのだと思う。〉(本文より)
【四國五郎とは】
1924年広島に生まれる。画家・詩人。
20歳で徴兵され、満洲で従軍、敗戦後は3年強にわたりシベリア抑留を経験。帰国して愛弟の被爆死に直面。以後、生涯をかけて、反戦平和のために、絵と詩で膨大な作品を描き残す。
言論統制下の時代、峠三吉らとの「われらの詩の会」による「辻詩」や『反戦詩歌集』『原爆詩集』に絵や詩で参加、また、土屋清作の演劇『河』のポスター制作、「広島平和美術展」の創設といった活動とともに、NHKの「市民の手で原爆の絵を」運動に協力する。
主な著作として、『四国五郎詩画集 母子像』(1970)、画文集『広島百橋』(1975)、苛烈なシベリア抑留体験を絵と文で記録した大著『わが青春の記録』全2巻(没後2017年公刊)の他、山口勇子作の絵本『おこりじぞう』の絵が広く知られている。2014年没。
著者紹介
●四國光(しこく・ひかる)
1956年広島市生まれ。四國五郎長男。
早稲田大学第一文学部卒業。(株)電通入社。マーケティング局局長、ビジネス・ディベロップメント・センター局長、(株)電通コンサルティング取締役兼務。2016年(株)電通定年退社。職業潜水士。NPO法人吹田フットボールネットワーク設立代表。
*ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです