- 鶴見祐輔 著
- 一海知義 校訂
- 四六変上製 896頁
ISBN-13: 9784894344648
刊行日: 2005/7
後藤新平の全生涯を描いた金字塔!
医療・交通・通信・都市計画等の内政から、対ユーラシア及び新大陸の世界政策まで、百年先を見据えた先駆的な構想を次々に打ち出し、同時代人の度肝を抜いた男、後藤新平。その知られざる業績の全貌を初めて明らかにする。
波乱万丈の生涯を、膨大な一次資料を駆使して描ききった評伝の金字塔。完全に新漢字・現代仮名遣いに改め、資料には釈文を付した決定版。
目次
第1章 第二次桂内閣時代 1908~11年
1 桂公の新内閣
2 政界進出
3 時代と人物
4 逓信省の業績
5 国有鉄道の新生
6 広軌改築問題
7 拓殖行政
8 政治外交および私生活
第2章 在野時代 1911~16年
1 訪 露
2 第三次桂内閣
3 同志会脱党
4 対大隈内閣
第六巻 『寺内内閣時代 1916-18』へ続く
関連情報
■1908年7月、後藤新平は、満鉄を逓信省管轄下に置くことを条件に、満鉄総裁から第二次桂太郎内閣の逓信大臣に転ずる。3年の任期中、日清・日露戦争後の極度の財政難の下で、後藤は辣腕を揮って逓信省の組織を大改革し、郵便・電話・電信・海運などの法整備と新制度の導入、水力発電調査等を進める。また新設の鉄道院(現JR)初代総裁として、組織を再編改革し、現業員の意識を高揚させて国有鉄道の基盤を固めるとともに、軌道広軌化を推進する。
■1911年、桂内閣は総辞職、後藤は野に下る。しかし前年の日韓併合、翌年2月の清朝滅亡を経て、大陸は混乱の度を増す。1912年、後藤は東アジアの平和への秘策を胸に桂と共に欧露へと旅立つ。だがサンクト・ペテルスブルグに着くや、明治天皇の死によって帰国を余儀なくされる。桂は、内大臣を経て第三次桂内閣を樹立、後藤も逓相として入閣するが、折しも湧き起こる護憲運動の嵐に、あえなく瓦解。旧来の党弊を超えた超党派的政党の必要を感じた後藤は、桂を促してその新党構想を支援するが、桂の死を契機に訣別する。
■1914年4月、大隈内閣が成立。7月に第一次世界大戦が勃発すると日本も参戦、翌年1月には大隈は21ヵ条要求を中国につきつける。在野ながら常に大陸に目を向け、日中合資の金融機関創設を模索していた後藤は、これを失政として大隈を罵倒、貴族院で論戦を挑む。かくして1916年10月、大隈内閣は総辞職。政界には後藤新平への追い風が吹きはじめる。
■1911年、桂内閣は総辞職、後藤は野に下る。しかし前年の日韓併合、翌年2月の清朝滅亡を経て、大陸は混乱の度を増す。1912年、後藤は東アジアの平和への秘策を胸に桂と共に欧露へと旅立つ。だがサンクト・ペテルスブルグに着くや、明治天皇の死によって帰国を余儀なくされる。桂は、内大臣を経て第三次桂内閣を樹立、後藤も逓相として入閣するが、折しも湧き起こる護憲運動の嵐に、あえなく瓦解。旧来の党弊を超えた超党派的政党の必要を感じた後藤は、桂を促してその新党構想を支援するが、桂の死を契機に訣別する。
■1914年4月、大隈内閣が成立。7月に第一次世界大戦が勃発すると日本も参戦、翌年1月には大隈は21ヵ条要求を中国につきつける。在野ながら常に大陸に目を向け、日中合資の金融機関創設を模索していた後藤は、これを失政として大隈を罵倒、貴族院で論戦を挑む。かくして1916年10月、大隈内閣は総辞職。政界には後藤新平への追い風が吹きはじめる。